ネガティブさ

ネガティブさ

たとえば

誰かの一言を耳にして、立ち上がるネガティブな反応。

誰かの表情を見て、立ち上がる不安や動揺。

その場のムードを感じて、立ち上がる警戒心。

トリガーされちゃうと、嫌な出来事を何度も思い出して、嫌な気分になるというパターン化した頭の中の水路。

などなど

自分の心の状態に意識を向けて、観察しながら暮らしていると、これまで気づかなかった些細な反応がよーく観えてくるんです。

そうして、落ち込んでみたりして ねー (^ ^ ;

虫眼鏡で、てんとう虫を観察するとして。

遠目からは、可愛らしいナナホシテントウも、細部にわたって見ていくと・・・・

ね・・

想像つきますか?

グロテスクにさえ感じられる。

あまり自覚したくない、自分のこころの詳細が見えてくるんです。

それは、たいてい、自己イメージを著しく阻害します(笑)

とはいえ それが、限定され固定したものから解放されるプロセスでもあるわけだけど。

突き止めたい気持ちで

その反応のもっと手前

どうなっているのかな、この原因はなにかな、どこからきているのかな・・

自分を探り、向き合い、自分の内的世界を知っていこうと、見ていくわけです。

ときどき

嫌になっちゃうの だけど〜。

サイエンズスクール HP

 

視野

ある日 「ネガティブさ」ってな〜 と思っていました。

しつこい感じよね〜 と。

罠にはまる感じもあるな・・

抵抗という罠かなぁ〜 と。

ネガティブなこころの状態を探究するつもりが、そういう自分を問題視して、なんとかそこから抜け出そうと努力する・・みたいなことが起こることがあるのです。

ネガティブなこころの状態を解釈し説明したくなる・・みたいなことも。

そこには、抵抗があるような気がします。

抵抗感

それと

正しいとか間違っているとか、どちらかに振り分ける意識

どう絡んでいるのだろう?

ちなみに「ネガティブさ」と表現しているのは、欲求が叶わない系の情動反応で

たとえば

怒り系感情、悲しさ系感情、不安系感情、苦しさ系感情です。

どんな感情であれ、そのときに十分に味わい尽くし経験されると、後腐れなく終わっていくのが健康なこころの状態だと思うのです。

小さな子どものように。

今泣いたカラスがもう笑った!

「ネガティブさ」とは、欲求が叶わない系の感情と思考がからんで、こころにしつこく居座ってしまうようなものをさしています。

けっこう、慣れてしまうと無自覚だったりする・・

それは、抵抗することによって固定される感じがしています。

そして、抵抗は、正しいとか間違っているとか、善いとか悪いとか、そのような判断から出てくるようにも思います。

みなさんの経験と照らしてみるとどうですか?

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そして、今日

「あ〜ぁ あ !!!」 ということがありました。

サイエンズの基本中の基本。

感覚で捉えたことを事実としていないか、という点に関することで・・

足元が見えていなかったんだなぁという発見でした。

つまり 

ですね。

その「ネガティブさ」というのは、どこにあるかというと、内的世界です。

わたし達がとらえる物質的な現象の世界に、ネガティブさというのは存在していません。

善いとか悪いとか

正しいとか間違っているとか

優れているとか劣っているとか

そういうことも、頭の中の出来事。

いったい、誰が、それをしているのでしょう?

わたし達の知覚と認知と認識の仕組みは、何かを見たり聞いたりして、感覚でとらえたことを、「事実」だとしてしまうのだということが、すっかり見えなくなっていました。

ただ、そうしてしまう、事実だと。それに善悪はなく、自然なこと。だけど、そこに目覚めていようということです。

火のないところに煙は立たない。

こころの状態に「ネガティブさ」があるのだから、なにか原因はあるだろうけど、それを探究するには、ここの明確さが不可欠でした。

その「ネガティブさ」と自分自身がぴったりとくっついているという発見!!!

ネガティブさ = わたし = 事実

たとえば

苛立ち、妬み、恨み = わたし = 事実

孤独感、孤立感、疎外感 = わたし = 事実

甘え、依存、迎合 = わたし = 事実

怠惰、面倒、億劫 = わたし = 事実

「わたしはこういう人だ」となっていました〜。

気づくと・・・

自分の認識が見えてきて、それが、ふーーーーーと離れていきます。

そうすると、一皮むけた感覚。着ぐるみを着ていたみたいというと大げさかな。

ネガティブさがわたしから離れていきます。

今日の、この再認識は立春にふさわしく、みずみずしい風を運んできてくれました。

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ここで大事な視点。

ネガティブさを、ポジティブに変えていくことが目的ではないということ。

ネガティブさでも、ポジティブさでも、それを自分だとしているものから解き放たれていくことが目的。

純粋に、経験の主体がいるところへ。

そして、知っていくのだと思うのです。言葉にできないものを。

あるがままを受け入れるということ。

自然な成り行きだということ。

原因があったから、結果があるということ。

影響しあい、複合的な動きがあるということ。

それが、自分に相応しいということ。

・・・学べることが、たくさんありそうです。

方向性は、統合。

ゼロというのか、マインドフルネスなのか、源なのか、気づきなのか、何かを感じ取って言葉にしているそのものの方向です。

今、あるものがあるのを当然としない意識で、もう一度、なにがあるのかを見ます。

自分の内的世界にあるものを、ただある、と、受け入れて抵抗を溶かします。

今のわたしにもっとも相応しいことが起きていると知っていく。

そうして、原理が見え始めると、本心からの音楽が聞こえて来るような気がします。

本心は、沈黙の中にあるように感じてます。

沈黙とは、言葉のない世界です。

だけど、何かしらの呼び声がする感じがしていて

だからそれを、音楽と表現してみました。

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ネガティブさ

無いほうがいい!

無い人のほうがえらい!

という価値判断が入り込むんだよね〜 (+ + ;

さあ その抵抗を溶かしましょ。

広々とした世界に、出て行きましょ。

 

あまなん

自分の中で

旧暦では師走を迎え、明日から春への土用入りです。

14日午後から、鈴鹿辺りは雪、雪、雪!
3日連続で雪が降っています。
なにも、センター試験のときに降らなくても・・・
娘ちゃんは、今後の進路を決めていくセンター試験でした。

新しい春も、もうすぐですね。

1年と9ヶ月くらい、自分の内面世界に向き合う暮らしをしてきました。そのような暮らし自体がかけがえのない機会だと、ほんとうに心から、しみじみ思います。サイエンズ留学生の人数も増え、希望しているという人と出会うことも、とっても増えました。

韓国からも5人の人たちが学びに来ていて、この春には、ブラジルからも来るとか。

心に響くものがあるのでしょうね。
心がなにかを求めていて、アンテナが立つとキャッチする。
そして、一人ひとりが、なにかをつかむのでしょう。自分の中に。

そういえば、留学生会館を建てようという噂も聞こえてきます。たった、2年足らずのうちに、多くの人たちに知られ、なかったものが現れる。その、人の想像から創造するエネルギーが集結していき、現実化が加速するのを、目の当たりにしている感じがします。

さてさて 一方で

そんな、何か勢いのようなものを感じるアズワン鈴鹿コミュニティの中で、わたしは、相変わらず、自分の内面世界に向き合い、実相とそうでないものとの識別とか・・ 感受性を磨くこととか・・ 癒しと再学習のプロセスを歩むとか・・ そのとき、そのとき、光が当たってくるものについて焦点を当てて、自分を題材に探究するということを続けています。

昨年4月から始めた瞑想も、無理ない感じで続いていて。

自分でどうにかしようとしても太刀打ちできない無自覚な心の現象について、瞑想や祈りを通して向き合うことも、とてもよい時間だと思っています。

昨年7月だったかな・・

「共感」ということに光が当たりました。
自分の中の意図が明確になるからなのか、それとも、そもそもそのような流れなのか、意識の中にはっきりと光が当たると、それに関連する情報に、ベストなタイミングで出会えていくという経験が少なからずあります。出会うまで、知らないのに、出会うと、これだ!と気づくというか・・ 不思議です。

9月、10月と、サイエンズと並行して、NVCに浸りました。

対立を解決に導く9つのコミュニケーション・スキルと、対人関係神経生理学や脳科学の観点から、「共感」がどのように細胞や脳に影響していくか、右脳に働きかける共鳴する言葉がいかに重要か、愛着形成が人間関係に与える影響と、その自縄自縛から解放され、回復していくためのワークなどなど・・・。本当に多くのことを学び、気づくことができました。

自分を知っていくこと、自己理解の助けに大きな貢献をしてくれました。
主催者のみなさんやトレーナーの人たち、場を共にした仲間たちから受け取ったことすべてに、感謝と温かな気持ちがいっぱいです。

サイエンズでの探究で見出していくことと、内容が重なるところも本当に多くて!その理解の助けにもなりました。ヘルスカウンセリングで学ぶ理論とも共通し、自分の中で、様々なことが多観点的に検討することができたと思います。

人が生きるということについて・・ この学びの機会のお陰で、慈しみが増幅。この探究が、どんなアラワレに育っていくのか。楽しみです。

サイエンズスクールへは、10月に「内観コース」へ、11月は「人生を知るためのコース」に参加しました。

いったい、何がどう影響しているかはわからないのですが、静かーに、静かーに、心の状態が変化しているのを感じていました。

波風が立たないというか・・・ 無風というか・・・ シーンとしているというか・・・

言ってみれば、わたしは、めっちゃ左脳に偏っていたのではないかと思われます。
秩序と構造をとらえ、段取りして、物事を達成するというような。
そのために見通しを立てて、比較して、判断していく。
列を組んで行進している小さな軍隊みたいな働き。
いつでも走り出せるようにエンジンがかかったままの車みたいな。

それが・・・  止まった? のかな?

その状態が、あまりに新しいので、ちょっと、何が起こっているのか不可解で。
落ち着かないというか、座り心地の悪い椅子に腰掛けているというか。
それを「意欲のない状態」ととらえていました。

サイエンズ留学に来た目的も色あせて(笑)あまり意欲的でなくなりました。
何かをやろうとか、やりとげようという息巻いた感じはゼロ。
この変化も、とても大切なプロセスのような気がするから、そのような自分の心の状態を眺めつつ、日々をおくっていたのですが・・

正直、いつまで続くのかな・・
このままでいいのかな・・
退屈やなぁ・・
つまらない・・

そんなふうに思うこともあって。

ある日、近況を親友と話しているときに
「意欲がないんだよねー。」というわたしに
「意欲がないと表現しているけど、話を聴いていると、何かをするための前提がなくなったという感じがするけど、どう?」
そう伝え返してもらった瞬間、目が覚めるような感じで、スッキリしていく感覚がありました。腑に落ちるというのでしょうか?

その対話から、わたしが、自分のしたいことをするために、欲しいものを得るために、どれだけ大義名分を必要としていたかが見えてきたのです。また、大義名分にふり回されて、純粋に、無邪気に、自分の求めていることが見えにくくなっていたのではないかという予測も立ちました。大義名分とは、一つの「考え」でしかありません。

あ〜 これはとても深い気づきでした。

開放感。

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その後、自分の内面世界で起こってくることを観察する人(ワタシ)の視点が、以前よりもしっかりしてきたのを感じています。

ありのまま 眺めていられるところ。

その視点には確かに、なんのジャッジメントもないのです。

その視点にいたら ですけど ネ。

慈しみ、味わい愛でるだけなのです。

どんな自分であっても。

なんだか気楽。

ようやく、「何が出るかな〜♪」というこころの状態を知ってこれているような気がします。

一進一退ですけど。

瞑想で言えば、「浄化の機会をありがとうございます♪」という状態。

相変わらず、うわっ!!! というような、自分の反応に気づくこともあるけど ネ。

それを、笑える自分も育ってきてるような気がします。

クスッ (≧V≦●)って感じ。

こんな感じを、ともに聴き合いなり合うお互いで、笑いあえていったら、ほんとうに生きるということが、もっとずっと軽やかで創造的になっていく感じがしています。そのような関係こそ土台となり、それゆえになり立つ場を、社会と言ってもいいのかもね。

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2016年は、1年間を通して、内面に深く深く潜る期間だったように思います。
ふり返ってみると、古い反応のストーリーが見え始め、気持ちも崩壊して、自己矛盾に向き合ったり、その葛藤から抜け出そうともがきながら、癒されていくもの、手放せたもの、解放されていく経験、受けてきた心の糧・・ さまざまなプロセスだったように思います。

四季のサイクルの終わりから、新しい春の始まりにうつっていく今。

1月28日の新月と、2月4日の立春を迎える頃、わたしの中に、みなさんの中に、どんな胎動が起こるのか、起こらないのか・・ 

わたしの外のものである「大義名分」から、わたしの中のものに・・ 委ねて。

あまなん

kitchen garden

広さは、畳4〜5枚分ほどかな。台所用のお庭。暮らす庭。

1年半、お手入れしてきて、少ーし、土の感じが変わってきたかな。

どこにいても、やっぱり土と暮らしていたい。暮らす庭で土に触れていると、こころも耕されているように感じます。草をひき、虫の動きを眺め、土の様子を見たり。気をかけ、手入れをしていることで、何かを足さなくても肥沃になっていく気がします。それは、土もこころも相似象なのかもしれません。

今日は、そら豆、ルッコラ、ひのな蕪の種を蒔いてきました。

この秋、初めてじゃないかと思うくらいの秋晴れだった鈴鹿。

空気が澄んでいて、とても気持ちのよい1日でした。

さてこれは

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タンポポです。育てているというか育っているというか。
種をみつけては畑に蒔いているので増えています♬
食用。主にサラダにして食べてます。根っこも保存しています。
いずれタンポポコーヒーにしようかと思ってて。

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ヨモギです。これも、育てているというか育っているというか。
時々、刈り込んで手入れをします。1年中、いつでも食べられるように。先端の柔らかい芽を摘んで、そのまま生で食べています。

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大根です。零れ種で出てきたもの。1番、大きい。練馬長大根。

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零れ種で、あっちこっちに大根の芽が出ているのだけど、一応、ここはお行儀よく蒔いたところです。ここは、少し虫に食われているけど、育ってきたなぁ。

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じゃがいも。ようやく芽が出てきたところ。秋は、まるまる1個、種イモを植えました。

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ニンニク。わかるかなー。
まだ芽が出てきていないけど、時間差で、あと2列、蒔いてます。

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ルッコラです。長雨続きで、芽が出てくるか気がかりでしたが、ぼちぼちと。
むふふ、嬉しい。大好きな野菜のひとつ。赤村にいるときもお庭に植えていました。
サラダ、パスタもいいし。生春巻きにも。
大きくなーれー。

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ペパーミントとアップルミント。増え続けている・・・。

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これは レモンバームです。これは、増やしておきたい。

現在の、暮らす庭の様子はこんな感じです。

パクチーも種を蒔いたのだけど、「しーん」としてて。
ボリジは、芽が出てきています♬
オレガノやセージなども増やしていきたいな。
茴香(フェンネル)もあるといいね。スカンポも。
ユキノシタは順調に増えており・・
オオバコは踏んで歩くくらいあって・・ お手当てや食用にする野草や薬草、野菜などを育ててみながら、自然に寄り添って暮らす試行錯誤の実験です。

夏もののバジル、荏胡麻、紫蘇、オクラの種採りも、徐々にすすめています。
種を取ったら来季まで保存。シェアしたり、交換したりも楽しい。

自然は豊かですね。種を一粒蒔いたら増えていくのだもの。お腹も満たされ、こころも満たされ、満ち足りた思いで日々を暮らすのに、「土」とは切っても切れないカンケイ。

土に根ざして生きていたら・・・ こころも耕されていく気がします。

さぁー 来月にかけて、スナップエンドウと絹さやエンドウも蒔く予定。

「暮らす」ということを思い、サティシュ・クマールさんの言う 3つの「S」を思い出す。

Soil(土)Soul(こころ)Society(社会)

暮らす庭で過ごす時間は、この3つの調和を考えるひとときでもあります。

 

暮らす庭は、「SUZUKA FARM」の出荷場があるはたけ公園内にあります。

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内なる世界を観ていく時間

 

内観コースでは、一緒に参加している人たちとも言葉を交わさず、個人的な人生の出来事についてひたすら記憶を遡り、歩いてきた道筋をたどって、その時の、自分の姿やこころの状態に直面し、よく調べるということだけをします。

一切の雑事に心を取られないよう配慮していただいて、自分をみつめるのことだけに費やす時間。

シーンとした部屋
虫が耳元を飛んでいくみたいなサーキットの音
膝掛けの下で温もる足先
ミシっと部屋のきしむ音
わたしのたどってきた轍

イマココの現実と、わたしの記憶にある過去が重なり合う空間
世の中の雑音も入り込まない「子宮」の中にいるような時間

それは、人の手によって現れる場です。・・・あらためて思うと

ここにわたしを送り出してあげたいという人たちの思いがあって
よい時間を過ごしてほしいという人たちの思いがあって
誰もが、このような時間をすごせる仕組みをつくりたいという人たちの思いとが重なり合っている。

そこには、ある種の「人間観」があると思う。
人が、自分の内面に向き合い、みずからを調べることを、とても尊いと扱っていると感じる。

それは、どんな人間観なのだろう。

よく眠れたか
体調はどうか
食事の量はどうか

6泊7日

受けて、受けて、ありがたくて、ありがたくて。
じわっととけていくような。

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わたしの(あなたの)内面世界が、わたしの(あなたの)人生を決めていく。

それを他人事とせず、尊く優しく受け止めてもらっていると感じる。

世界は、わたし達人間の内面世界の相乗積で、日々更新されていてわたしもその大事な一員だと感じられる。

実際の自分の姿に向き合うことで、感じられてくる本来の・・・ イノチの・・・ まさに今「ある」ものとの接合。

自分を守りたい意図で、波立つこころの動きとは別に、穏やかで、見据えているような「ある」もの。

視点が変われば、ものの観方が変わり
ものの観方が変われば、心の状態も変わる。思考も変わる。姿が変わる。

わたしとは、いったい 誰なのだろうね。

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人が、その人のやりたい分で、自分の内面世界についてよく調べてみることを、支え合い喜び合う気風。

それは、ある種の人間観から生まれているのではないかな。そんな人間観をもった人たちの集う場では、ある種の気風が醸成されて形となり、文化が育まれていくのではないかな。

車検みたいに(笑) ^^;
みずからを点検したいと思う人が、6泊7日くらい、簡単に休めるような社会だといいな。
そのくらいの時間を、人生で定期的に持てるくらいの社会構造をデザインできないかな。

そんなに難しいことじゃないかもしれないね。

あまなん

久しぶりのオフ

蝶は飛びます。

ただ飛ぶだけです。
一休みして、じっとしていることもありますが、また飛び立ちます。

何にも、誰にも執着することなく。
森をもっと美しくしよう、ということにしか興味がありません。

あらゆる物、あらゆる人を心の中にしまい、飛び続けます。それだけです。
何にも、誰にも依存していません。
人からの愛や、その存在に依存していません。

ただ愛するだけです。愛して、飛ぶのです。愛して、飛ぶのです。

以上は、ある本からいただいた今日のメッセージからの抜粋。

内側から輝くような人であれば、その人が何をしていようと、その場が明るく照らされているのだろうなぁ・・と想像する。きっと、誰もがその人それぞれの角度から照らす光を携えているのだと思う。それを曇らせているものをお掃除し、磨いていくことで、自然と光り輝いてくるのだろうな。

メッセージを3回読んだ。

森 とは、わたしの心の状態のことだととらえた。

あらゆる物、あらゆる人を心の中にしまう とは、過去をゆるして手放すことかな。

もう少し具体的にあらわすと、過去の出来事において、いつの間にかしばられていた「考え」によって、無自覚にとった自分の行為に気づき、相手の行為も自分の行為もゆるすこと。

「考え」を単に「考え」としていたのではなく、まるで実在するかのように無自覚に信じ込み、あまりにも当たり前すぎて気づきが及ばないために、正しさを振りかざしたり、他者に押し付けたり、自分を抑制したりしていた無知をゆるすこと。

頭の中に固定している「考え」の位置を知り、その「考えの意図」がどこから来ているのかを探り、見極めること。そして、魂からの意図を感じとっていくこと。

魂の意図に役立たない「考え」を手放して、世界を見渡すこと。

そこには、蝶が見る世界が広がっているのかもしれないな。

何にも、誰にも依存していない とは、蝶のように安心して自由でありなさいということ。

そんなふうにメッセージを受け取った。

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愛するとは、どんな感じだろう。

わたしが愛だったら、どうするだろう。

地球にキスをするように歩き・・・

からだを慈しみ・・・

今日は、どうすごそうかなぁ・・という思いを遊ばせながら、サイエンズスクールの内観コースに参加してきた気づきと学びをまとめていました。
それもまた、数日後にでも、ここに掲載しておこう。

あまなん

War Is Over .

3月末に受けた社会を知るためのコースで
こころの中で起こる対立や攻撃のカラクリが
目の前に浮かんで観えてくるような経験をしたのです。

なぜ、対立するのか

なぜ、攻撃的になるのか

それは、わたしの性格や特性ばかりが原因ではなくて(^ ^ ;
社会構造と深く関わっていることが見えたのです。
社会構造は、わたし達の思考を固定させてしまいがち。

「〜〜だから、仕方がない。」

「それは、そういうものだ。」

今、生きている人の気持ちや情緒よりも
何かがおかしいなと感受する感覚よりも

「これまでもそうだった。」という考えが力を持ってしまうのは
頭の中で、何が起こっているのでしょうね。

構造的暴力は、そこに生きる人間の思考に影響して
暴力を肯定していきがちになるのだと思うのです。

「〜〜だから、仕方がない。」

「それは、そういうものだ。」

社会の成り立ちを調べ、知っていくと
その構造が見えてきて、その構造が、わたしの思考の構造と
密接につながっていることが見えてくる。
影響というか・・ とらわれるというか・・ コピーというか・・

こんなにも密接な関係なのだとは思いませんでした。

大発見です。

みんなにも知ってほしい〜
共に考えたい〜
共に自由になり合いたい〜

どんなに、今の社会に問題意識を持ち、変えていきたいと思っていても
表層意識では、独自な考えを持っているようでも
今の社会を成り立たせている「人間の考え」が
頭の中に、しっかりと入り込んでいるということに無自覚だと・・・

事柄を変えて同じことが起こる要因はここにあるのではないかしら。
平和を願い、活動しているはずが、対立や攻撃を生んでいく。

・・・・。

あ〜〜〜〜  なにやっているんだ 自分!!!

そんな、社会を知るためのコースでした。

コースも終盤、脱力している自分に気づいていました。
全身から力が抜けてしまった感じ。

「もう 戦わなくていいんだなぁ・・・・・。」

こころの奥から浮上してきたのは
戦争は終わるよ、本気で終わらせたいのなら。
もう 戦わなくていいんだよ。
戦う相手なんて、そもそもいなかったんだから。

そんな感覚でした。

観える ということは偉大です。

癖になった、思考回路を紐解いて解消していく(ゼロに戻る)プロセスは
これからも続くと思うし、探究はライフワークだけど

終わった 〜 〜 〜 〜 〜 っていう 安堵感に包まれました。

戦争は 終わった!!!

内的世界においての対立や攻撃は終わっていくと思います。

War is over !!!

なぜ、したくもないのに
そんなにも戦いに挑んでいったのかしら。

パターンが見え始め
それを固定するものの観方に手が届いてくるような気がします。

あまなん

calling

ときどき、読みたいから転載しておこう。
呼びかけに応えていくこと、ただそれだけなのかもしれないな。

===============以下転載

まさしく。

で、私たちは、このプロセスとして目覚めることへと招かれている、と私は信じます。まさに私たちの内なる<霊(スピリット)>が、自意識的になること、さらにいわゆる超意識的にすらなることへと招かれているのです。深さは、輝かしい<すべて>とまったく一つであるという、それ自身の衝撃的認識への途上で、潜在意識から自意識へ、自意識から超意識へと高まっていき、そして私たちはその一なるものとして目覚めるのです。

どう思います?

狂気じみていますか?

神秘家や賢者たちは狂っているのでしょうか? 彼ら全員、この同じ物語、ある朝目覚めて、自分が<すべて>と超時間的に、永遠に、無限に一つであることを発見するという物語のいろいろなヴァリエーションを語っているのではないでしょうか?

たぶん彼らは狂気じみているのです。これら神聖なる愚者たちは。たぶん彼らは<深淵>に向かってもぐもぐ言っているバカ者なのです。彼らにはいいセラピストが必要なのかもしれません。ええ、それが助けになることは確かです。

しかし、それからどうなるのでしょう?たぶん進化の順序は実際に物質から身体、心、魂そして霊へと、それぞれにより大きな深さとより大きな意識とより広い包含をともなってそれぞれが超えて含んでいくでしょう。そして進化の達する最高の段階でたぶん、ただたぶんですが、個人の意識はたしかに無限 ー全<コスモス>の全面的包含ー 自身の真の本性に目覚めた<霊(スピリット)>である<宇宙(Kosmic)意識>ーに振れるのです。

===========転載ここまで 〜 ケン・ウィルバー「万物の歴史」より 

・・・・・  一なるものとして目覚めるのです。

なんの根拠もないけど、そう思うなぁ。

あまなん